2007年10月26日

(27)禅の言葉

 禅に「卒啄同時」(そったくどうじ)、もしくは「卒啄一如」ともいわれる言葉がある。卒の字は、正しくは「口偏に卒」と書くのだが、僕のパソコンにはその字がないので、とりあえず「卒」で代行させてもらう。
 意味は、鶏の卵がかえるとき、殻の内側から雛がつつく音が「卒」、母鳥が外から卵を噛み破るのが「啄」。内と外とのタイミングがぴたりと合って、初めて卵が孵化することから、師匠と弟子の働きが合致すること、両者の呼吸が合って初めて、弟子が一人立ちすることを表す。そこから「逃したら、またと得難いよい時機」という意味も生まれた。
 と、いかにも知ったかぶりで書いているが、実は4年前の春、朝日新聞の「言葉の旅人」という週末版の連載を取材中に聞きかじっただけのことである。
 話の主役は「あの月に向かって打て」という名言を残したプロ野球・東映の飯島滋弥コーチと大杉勝男選手。二人ともとっくに亡くなっているが、一人の選手の才能を開花させるきっかけとなったこの言葉が生まれた事情を知る人を、東京から伊豆半島へと「探偵!ナイトスクープ」のような手法で訪ね歩き、その秘密を解明した。その取材のことはほとんど忘れているが、なぜか、チラッと聞いただけのこの言葉が記憶に残っている。
 そして、ファイターズの練習を見るたびに、この言葉が浮かんでくるのである。その理由を書いてみたい。
 ご存じの方も多いと思うが、ファイターズの練習は、一般的な体育会系クラブに比べても、部員の自主性というか主体性が重んじられている。初めて練習を見たときに「これが日本1を争うチームの練習か」と意外に思われる方も多いだろう。
 コーチや監督が頭ごなしに怒鳴り上げ、一方的に練習を引きずっていくという場面はほとんどない。いま話題の大相撲のような「無理偏にゲンコツ」とか「かわいがり」という名の「しごき」とは無縁だし、教える側が教わる側に、理不尽な服従を要求するような場面も、僕は見たことがない。上級生が下級生を暴力で支配するようなこととも無縁である。
 要するに、大学の体育会に所属しながら、世間で「体育会系」と揶揄(やゆ)される事の多い世界とは、明確に一線を画している組織である。それを「歯がゆい」と批判する声を聞いた事はあるけれども、僕の周囲では、それ以上に「それがファイターズの伝統だ」と誇りを持っていう人の方が多い。
 そんな、いわば春の陽光に包まれたようなファイターズの練習風景が、毎年この季節になると一変する。春の穏やかな陽気が「秋霜烈日」に変わってくるのである。
 練習場への外部の人間を立ち入り禁止にするのはその第一歩だし、ハドルへの集散のスピードも上がってくる。4年生の多くは、練習開始の2時間も前からグラウンドに出て、率先して練習しているし、マネジャーの掛け声ひとつとっても、切羽詰まってくる。コーチ陣の取り組みは明らかに変わっているし、けがで練習がままならない部員も含めて、フィールド全体がピリピリしてくるのである。
 シーズンが深まり、宿敵との決戦の日が目前に迫っている以上、それは当然のこと。この時期に「春うらら」のような雰囲気が支配しているようでは、さすがにヤバかろう。
 この時期が、さきの禅の言葉で言えば「卒」に当たるのではないか。いままさに雛が卵を内側からつついている状態。こうなって初めて、コーチの「啄」、つまり外からのアドバイスの一つひとつが部員の滋養になり、骨になり、血液になる。
 つまり、目標はあっても、なお漠然としているシーズンオフの走り込みや春先の練習(それはそれで、極めて大切なことだが)とは違って、いまこの時期、弟子の側に「上達したい」「勝ちたい」という意欲がむき出しになっているからこそ、教える側の一つひとつの言葉が生きてくる。部員に「教わるための準備」が整ってきた「いま、この時」こそ、飛躍の好機だと、僕は思うのである。
 気持ちが集中し、決戦に臨む準備が整いつつあるこの時期。昨年、神林マネジャーがこのブログに書いた「死に方、用意」ができたこの時期の練習こそ、心技体ともに、一段上のステージに飛躍する好機である。
 それぞれの部員がこの好機をつかみ、一気に階段を駆け上がってほしい。「卒啄同時」。チャンスは前髪しかない。
posted by コラム「スタンドから」 at 05:42| Comment(0) | in 2007 Season
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