2008年07月18日

(13)勝海舟の「段取り」

 ころは幕末。薩長軍の江戸総攻撃を前に、攻撃方の参謀、西郷隆盛と談判して、江戸城の無血開城を成し遂げた幕臣・勝海舟の話は、いつ読んでも面白い。ご本人の言葉をまとめた「氷川清話」や「海舟座談」、それに最近、ちくま文庫から出版された半藤一利さんの「それからの海舟」などを読んでいると、140年後に生きているわたしたちにも、役に立つ話がテンコ盛りだ。
 例えば、西郷と談判するにあたっての「段取り」である。彼は万一、交渉が決裂したときに備えて、新門辰五郎ら江戸の主立った侠客30余人、いろは組の火消しはもとより、日本橋の魚市場や神田の青物市場の血気盛んな若い衆に、ゲリラ戦を展開する準備をさせていたという。その上で房総の漁師を呼び寄せ「江戸で火の手が上がれば、ありったけの舟で漕ぎ寄せ、江戸の川や堀、海岸に着けて、逃げてくる者を収容してくれ」と依頼していたそうだ。
 もちろん、徳川家の大将である15代将軍慶喜のためには、イギリスと渡りをつけ、軍艦に乗せてもらって安全なところにお移り願った上で、幕府軍の精鋭が薩長軍を迎え撃つという態勢を組んでいる。
 このように、事が破れたときの段取りをしておかなければ談判にも力が入らない。鳥羽・伏見の戦いで勝ち、「勝てば官軍」の勢いに乗って江戸に乗り込んできた相手方の大将と1対1で対決し、互角に渡り合って和平交渉をまとめ、江戸を戦火から守るには、それだけの準備、心がまえをしておくことが、海舟にとっては、必須の条件だったのだ。
 結果は歴史が語る通り。西郷隆盛と勝海舟の談判はまとまり、江戸城は無血開城。江戸八百八町は、火の海になることを免れた。
 と、こんな話を長々と書いたのは、ほかでもない。海舟が事を構えるに当たって、周到に準備した「段取り」が、ファイターズの諸君にとっても、大いに参考になると思ったからである。
 つまり、立命をはじめすべてのライバルに勝って関西リーグを制覇する。甲子園ボウルに勝ち、ライスボウルに勝って日本1になる。そういう困難な目標を達成するためには、そのための「段取り」を、日ごろから周到に行わなければならないと言いたいのである。
 どのチームにも、どの選手にも負けないように鍛錬する。効率よく練習する。私生活を含め、誰よりも高い目標を持ってアメフットに取り組む。日々、互いに協力し、高めあう。グラウンドで戦う選手だけでなく、ファイターズのすべての構成員がチームに貢献する。具体的にいえば、こうしたことのすべてを貫徹することである。
 それがあって初めて、勢いに乗って攻め込んでくる敵の大将とも「腹に力を入れて談判する」ことが可能になる。どんなに優れた選手と1対1で対決しても、互角に渡り合い、臆せずに戦えるのである。
 海舟自身、後に「本当に修業したのは、剣術ばかりだ」(氷川清話・講談社学術文庫)と述懐。その修業の模様をこんな風に語っている。
 「若いころは島田虎之助という師匠の元に寄宿して、自分で薪水の労をとって修業した。寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方から稽古着一枚で王子権現にいって夜稽古をした。拝殿の礎石に腰掛けて瞑目沈思、心胆を錬磨し、しかる後、起って木剣を振り回し、さらにまた元の礎石に腰をかけて心胆を錬磨し、こういう風に夜明けまで5、6回やって、帰ってすぐに朝稽古。夕方になると、また王子権現に出掛けて、1日も怠らなかった」「修業の効は(幕藩体制)瓦解の前後に顕れて、あんな艱難辛苦に耐え得て、少しもひるまなかった」(同上)
 こうした修業も含めて、海舟は「段取り」の人だった。こういう土台があったから、いざというときにも、ひるまず、臆さず、腹を据えて難局に対処できたのである。
 時が移り、時代は変わっても、しょせんは同じ人間のすること。アメフットの戦士と、武士の心がまえや行動に、そんなに大きな違いがあるとは思えない。幕藩体制が崩壊していく渦中に身を置き、単身、敵の大将と互角に渡り合った海舟の心境に思いを馳せ、彼の行動を支えた「段取り」のすごみに習うことで、これからの戦いの糧が得られるのではないか。そう思って、長々と書いてみた。なにかの参考になれば幸いである。
posted by コラム「スタンドから」 at 07:01| Comment(0) | in 2008 season
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